第三章

11
横浜に帰って
2007/11/2(金) 午後 0:56


 
 まあ、その後は健全な学生時代を通り越し、鈴木自動車工業のメーカー社員のなったのですが、家庭の事情もあって、急遽、私が家業を継ぐことになりました。
 そういうわけで、話はいきなり飛びます。私が前の会社を辞め、愛車カルタスに家財道具を満載して新潟を出たのは昭和61年4月の事でした。

 赴任地の新潟県上越市から、まだ路肩に雪が残る東頸城郡の山々、十日町市内を抜けて、代掻き(しろかき)が始まった魚沼盆地の牧歌的な風景を眺め、何か胸の奥に重たい物を抱えながら、口を真一文字に瞑って六日町インターから高速に乗り入れたのでした。

 そして関越自動車道練馬ICから都内に入ったときは夕方の渋滞に差しかかかっていました。流れの遅い環八を避けて環七を通り、第三京浜に入り多摩川をわたると、やはり地元に帰ってきた気持ちになりほっとします。しかし4年ぶりの横浜はだいぶ変わっていました。

 東京から首都高速が伸びてきて、横浜そごうやポルタ地下街などの商業施設が出来、FM横浜が始まっていました。
 FENのラジオを頼りに、自分の中のアメリカを追い求めていた古きYOKOHAMAの影はどこにもありませんでした。


 さて、『質屋七年』という言葉があります。一人前の質屋になるには最低でも7年かかるという意味です。前の会社ではそれなりに責任ある立場にまで出世していた私でも、帰ってきてすぐに質屋になることは出来ません。本来でしたらどこか大きな質店に丁稚奉公して仕事を覚えるのが普通の質屋の継ぎ方ですが、これも家庭の事情があって、そうそう店を空けることは出来なかったのです。

 仕事は店で父を見て覚えなければなりません。当時は在庫の殆どが着物や背広、毛皮など衣類の時代でしたから、まずは着物畳み方、付下げや紋付きなど着物の種類、正絹とウールの違い、大島や結城など高級品の特徴、それらの贋物についても小学一年生になったつもりでノートを作って覚えました。

 また、幸いにも父がまだ元気でしたので、勉強のために外に行くことは出来ます。大卒の営業マンとして一人前の顔をしていても何にも知らないんですね、まず商売の基礎の基礎、簿記を勉強しました。
たまたま法人会で簿記会計の口座をやっていたので受けることが出来たのです。

 それから宝石の勉強にも行きました。これも基礎知識は頭に入れておかなくてはなりません。御徒町にある中央宝石研究所では宝石講座をいつでも開講しています。料金はかなり高いのですが、ずっと進めばGG(国際宝石鑑定士)まで取ることが出来ます。私はそこまでは進みませんでしたけど、大阪では質屋を継ぐにはGG所得は絶対条件みたいです。

 それから何と言っても中古品がいくらで売れるのかを勉強するには、古物市場に出入りするのが一番です。ここでの落札価格が質預かりや買い取り値段の基準になります。これは父の口利きで組合主催の古物市場のお手伝いをさせていただくことになったのです。

 ただ、質屋で扱う品物の流れは、ちょうど大きく変わる転換期だったようです。


バブル景気と言われた好景気が始まる1987年の一年前のことでした。
   【「その時歴史は変わった」風に終わってみますた。】






12
電気製品の時代
2007/11/3(土) 午前 10:59




 とにかく、前の会社を辞めて家業の質屋を継いだと言っても品物の査定など出来るわけありません。以前書いたように簿記を習いながら、中央宝石研究所に通い、古物市場で勉強してはいたものの、当時の主力であった着物、洋服には全く興味がありませんでしたし。

 それでも、父よりこれは得意だと言える品種が家電製品でしたのです。以前の文章に書いたように、父の命令でビデオの取り付けは何度もやっていましたし、もともと電化製品は好きでしたから、お客さんが持ち込んだ最新鋭のワープロや、マニアックなオーディオ機器には目を輝かせて扱わせてもらいました。中古相場や修理費用なども自然と覚え、中央宝石の帰りには秋葉原にまわって、裏道のジャンクショップで中古品の販売価格を覚えたり、部品や用品を買い求めたりしていました。

  そうなんです!!、私は元祖アキバ・オタクだったのです!!!

 また、その頃は新しい分野の電気製品がどんどん発売される時代でした。
ソニーのウォークマンが発売されたのは私が大学生の時でした。これがラジカセと一緒になったり、CD(コンパクト・ディスク)が発売され、MD、 ワープロ、 MSX(簡易パソコン)、ファミコン、家庭用コピー機、ミニコンポ、留守番電話機、コードレス電話機、FAX。
 ビデオもハイファイビデオ、EDベーター、S-VHS、衛星放送BSチューナー、ビデオディスク、レザーディスク、大画面テレビ、そしてパソコンへと続いてゆきました。

 新しい商品が出ると、「Get NAVI」や「Goods Press」みたいなモノ専用雑誌はありませんでしたが、少しでも特集が出ている記事をもとめて本屋で探したり、カタログをもらってきたりで、実はそれはそれは、私にとって至福の時間だったのです。
 電化製品の中古品買い取り価格っていうのは、「相場表」という百科辞典ぐらいの大きさの業界本に載っているのでそれを見れば分かるのですが、上記のように、自分で勉強(?)した最新式の品物が質屋にやってくると、
「これは相場表以上に売れるだろう。」と、自分で予想を付けて、
どこの質屋よりも高い値段でお預かりしたものです。

じゃあ、流れたら損するじゃないかと思うでしょうけど、大丈夫だったのです。

私の従兄弟が静岡県磐田市役所の近くのバーンビレッジというところで、古本屋を開業していました。ただ、あまり売れなくなってきたので、中古品の電気製品を売ろうという話が持ち上がり、私に協力を求めてきました。この話がうまくゆけば、当店、専用の販売店が出来ることになり、質査定価格の上昇が期待できたのです。




13
2007/11/5(月) 午前 9:59



 昨日、バーンビレッジという言葉にお二人の方が反応して下さったのには正直驚きました。そこで、ネットで調べてみたらまだあるんですね(失礼)。静岡県磐田市、ジュビロ磐田の磐田市です。

東京大阪など都市部でお暮らしの方は馴染みがないかもしれませんが、郊外によくある商業地区形態で、駅でも町でもない場所、田んぼや畑のど真ん中に大きめの駐車場と数十店の店舗が軒を並べて、一つの商業地域を形成します。今はどうか知りませんが、20年前のバーンビレッジはそんな感じで、遠くに磐田市役所が見えるものの、周りは農地ばかりでした。
 そのバーンビレッジの中で、古本屋をやっていた従兄弟が、古物営業許可証もあることだし、当時流行だった中古家電の販売店をやってみたいと言い出し、叔父である私の父に相談してきたのです。

 父も頼られ易い性格ではありますが、ただの質屋でしたから相談に乗りようがありません。とりあえず出入りの古着業者相談し、東京質屋組合発行の相場表に資料を提供しているという荒川区にある老舗の古物品業者K商店を紹介してもらいました。

 まずは挨拶に行くのですが、話を通すためにも元セールスで飛び込み訪問を得意としていた私が、
従兄弟夫婦と一緒に行くことになりました。ただし、当時の私の車は二人しか乗れず、従兄弟も、以前の物干し竿を売っていた頃の1.5トン・ロングのトラックしかありませんから、そのトラックに従兄弟夫婦と三人で乗っての訪問でした。

 K商店については失礼があってはいけませんから、細かくは書きませんが、事務所にいる社長の前に通され、私が挨拶の後、一生懸命話すのですが、社長はイヤホーンでラジオを聞きながら、何が一生懸命チェックしたままで、とてもご挨拶という雰囲気ではありません。私はそれでも、20分ぐらいでしょうか、まくし立てると、ようやくこちらを向いて、
「で、どういうものが欲しいんだ?」
 と老眼鏡を下げて上目遣いで聞いてきます。
 従兄弟が、
「はい、ハイファイ・ビデオ…、」と言い出したところで、私はそれを制して、
「いえ、とにかく売るものが御座いませんので、何でもいただきます。店のスペースはありますので、特に都市部では売りにくいガサモノ(大きいモノ)であっても分けて戴ければ大喜びです。」
 それを聞いた社長さんはニヤッと笑って、
「じゃあ、ちょっと行こうか。」
 と、私達を荷物の入った倉庫ではなく、敷地内のプレハブで出来たガレージに連れて行きました。

 そのガレージのシャッターを開けると、中にはガラクタ(いや失礼)中古のステレオやらラジカセやらテレビ、冷蔵庫、ゴルフクラブ、麻雀卓、電動あんま椅子、ぶら下がり健康機などなど、が雑然と積み上げられていました。
 たぶん、今思うに、そこにあったのは、正規なルートで売りにくかったか、売っても利益が見込めないものだったと思います。それでも私達にとっては宝の山でした。
 ぶら下がり健康機があったら、ぶら下がってみたいと思うでしょ?電動あんま椅子があったら、座ってモミモミされたいと思うでしょ?それがお金になります。都会ではなく、家も納屋も土間も広い農村部の家なら、電動あんま椅子を土間のはじっこに置いておいたら、たまに使えていいかもな?まあ12万円じゃあ嫌でも2万なら買ってもいいかと思うのが中古品の値段になるのです。
 けっきょく、トラックで行ったのが幸いして、そこにあったガラク…じゃなかった、宝の山を全て買わせていただくと、社長も喜んで下さったのか、
「これも持っていくかい?」
 と、あればいくらでも売れた14インチのカラーテレビも数台分けて下さいました。
 私達は小躍りしたい衝動を必死に押さえて、K商店をあとにし、近くのホームセンターで作業用のブルーシートとロープを買って、戦利品でいっぱいになった荷台をぐるぐる巻きにした後、東名高速で3時間、磐田のバーンビレッジに帰りました。こうしてようやくサン◯ブリー・イワタの開店にこぎつけたのです。

 K商店にはその後も従兄弟が定期的に買い出しに行き、やはり売りにくいモノも文句も言わず買い付けることによって信用をいただき、かなりの金額の取引をさせていただくようになりました。
 私は、うちの質屋で買い取ったり流れた品物とともに、相場に詳しいことを生かして、こちらの市場で品物を買って磐田に送っていましたが、そのうち従兄弟が自分で市場に出入り出来るようになり、私もサン○ブリーの経営から手を引きました。
 サン○ブリーはその後何年か順調な経営を続け、バーンビレッジの中で、より大きな店を占めるようになってゆき、法人化も果たしたのですが、その後、ある事件をきっかけに経営に失敗して、店を閉めることになり、お恥ずかしい話、従兄弟は現在行方不明中です。







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プレミアの中古品
2007/11/6(火) 午前 11:56



 前々回のブログで書いたように、市場調査と称して秋葉原電気街をふらついていた癖が抜けず、未だに休みの日にはヨドバシやソフマップを彷徨したりしている、・・・・楽しい!!

 一昨日も、ドコモの新型携帯905シリーズってどんなもんかと思ってヨドバシカメラ京急上大岡店
に寄ってみたら、どの機種も在庫はあるものの、パナソニックのP905iに限っては、予約待ちで、次にいつ入ってくるかもわからない状態だそうです。

 こういうことって良くありますよね、最近ではニンテンドーのゲーム機Wiiや、ニンテンドーDSlite、クロエのバッグも出始めは3週間待ちでした。
 そうなると、順番を待てない人は中古でもいいから欲しいとなって、古物市場での売買価格が上がるのです。新品価格より高くなることもしばしばです。
 電化製品でもこういうことはしょっちゅうありました。ソニーの8ミリビデオ、ハンディーカムCCD−TR55は、それまでのビデオの常識を破る小ささと高性能で発売と同時に人気となり玉不足が続いたために中古の値段も高いままでした。
 古物市場には、正直何でも出てきます。携帯型育成ゲーム「たまごっち」が発売されたときには、たちまち人気が出て、これも古物市場で新品販売価格以上の値段で取り引きされていました。

 ファミコンの時は、私はまだ質屋ではありませんでしたけど、スーパーファミコンが出たときは、ちょうど子供達もそれを欲しがる年齢だっただけに、古物市場に出品されると、一生懸命セリ落とそうとヤリをいれたものです。もちろん、当店の買い取りもありましたけど、とても需要に追いつけず磐田の店に送ることも出来なかったほどです。

 でも、ごく普通に考えて「中古の品なんていらないよ!」と思う方もいらっしゃると思います。ところが、今、上に書いた品物は、一言で中古とは言えない品が多いのです。

買ってみても使わなかった品物、あるいは初めから転売する目的で買った品物など、ほとんど新品と同じ商品が多く回ってきたのでした。








15
生活と質草
2007/11/6(火) 午前 11:56




 今日は暗くて、重た〜〜い話を書きますので、作り笑顔をしてから読んで下さい。
 皆さ〜ん、準備はいいですか〜〜?
話は、電化製品を質屋で扱うときまで戻ったと思います。
 質屋っていうのは、テレビでやってるように、品物を買い取るのが本来の仕事ではありません。
お客様が持ってきた品物の価値を査定して、その価値と同等額をお貸しし、3ヶ月の間に、そのお貸しした金額と、そのひまでの質料をいただいたら、品物をお返しするという商売です。(知らなかった?)

 かつては着物をお持ちになることが一番多かったのですが、ユビワやネックレスなどの宝石・貴金属類、掛け軸や壺などの骨董品、カメラやスキー板、ゴルフセット等の趣味の物なども扱いました、
 その前になると、鍋・釜・布団などの生活用具、落語のネタを質に入れたという話も落語にありますね。国民みんなが貧しかった時代です。生活用品を一時質屋に入れてでも生きていかなければという、
力強い時代でもあったわけです。ただ、私はそういう時代の質屋は知りません。

ここで、やっぱり悲しいお話をひとつ・・・。

 私は店であったことは、例え女房や兄弟にも言いません。
 まだうちの子供が小学生で、当時流行っていたスーパーファミコンに夢中だった頃の話です。
 子供が妻に言うのです。
 「○○ちゃんち、ファミコン禁止になっちゃったんだって、お父さんに取り上げられたらしいよ。」
 「あんたもファミコンばっかりやってると、ファミコン禁止にするよ。」
 妻はそう子供に言いましたが、私はその話を聞いて胸を痛めました。
 その○○ちゃんの親が、先日スーパーファミコンをうちに質入れしに来たから・・・・。

 先ほど並べた、着物やスキーのセットと違って、電化製品というものは生活に直結したものが多いです。つまり、テレビを質屋に入れた後は、その人は、その日からテレビを見れなくなるわけです。
冷蔵庫を質屋に入れた人は、生鮮食料品は買えなくなるし、 洗濯機を質屋に入れた人は、コインランドリーに通わなければならなくなるわけです。

悲しいって言えば悲しいけど、それでも、給料日まで食いつなげればいいや、と思えれば、それはそれで力強い生き方だと思います。
 子供のゲーム機を質に入れるのはどうかと思いますが、
「うちは、お金がないから夕食を食べれないのよ。」
 と、子供に言うよりは、ずっと健全な生き方だと思います。
 ・・・・・僕は父親としてそう思います!

 みんな一生懸命生きているんです。
 それのお手伝いをしてきた質屋は、自分の気持ちを殺してでも胸を張って明るく接しなくてどうします?そうしないと、お客さんが悲しくなるじゃないですか!!(自分に言ってる!)

・・・・と精神論で暴走してきたところで、次回に繋ぎます。
               (あれっ?、今日の話って文章になってないな〜〜。)




第三章おわり、