酉の市と傷痍軍人
2007/11/2(金) 午後 0:56


 映画「ALWAYS 三丁目の夕日」でも鈴木オートの一平君が、お母さんに
『新しいセーター買ってくれよう。』と頼むシーンがありますが、物を大切にした時代、
そうそう新しい洋服など買ってもらえず、子供のセーターやズボンの肘や膝はつぎ当てがあたりまえでした。

 ただ、一平くんはひとりっ子だから、まだいい方で、昨日も書きましたように私は三人兄弟の一番下でしたから、着る物は殆ど全て兄のお下がりで、それが当たり前と思っていましたから、別に新しい洋服が欲しいなんて思ったことありませんでした。逆に兄が新しいジャンバーを買ってもらうと、いずれ自分の物になると思って一緒に喜んだものです。
 寒さもだんだんと厳しくなってくると、お酉さんがあります。 お酉さん(酉の市)というのは父から「働く人のお祭りだよ。」と説明されていました。横浜では南区真金町、横浜橋商店街の裏にある大鷲神社(おおとりじんじゃ)での門前に市が立ちます。昼間もやっているようですが、お酉さんというと何故か夜のイメージがあり、実際、夜しか行ったことがありません。両親が仕事を終えてから来るわけですから、夜にしかいけないのは当たり前です。

 市電(路面電車)に乗って横浜橋で降りると、ものすごい人です。今でもそうですが、ホントに物凄い人で、小さかった子供頃は前も後も人ばかりで何も見えません。それでも、人と人の間から見える裸電球に照らされた夜店にワクワクしながら神社さんまでゾロゾロと歩いて行きます。綿アメ、たこ焼き、お好み焼き、べっこう飴、子供向けのおもちゃを売るお店もありました。
 そんな華やかな夜店の中に、一つだけ怖い場所がありました。昔の軍隊の略帽を被った傷痍軍人が、四つん這いになって、物乞いをしているのです。隣りに同じ恰好をした人がアコーディオンで『ここはお国の何百里〜♪』を弾いています。
「ね、おにいちゃん、見た?あの人右手がなかったよ。」
「しっ!!、見るなよ。」
 私達は見てはいけない物を見たような気持ちで、一生懸命忘れようとしたのでした。







年末の風景
2007/11/3(土) 午前 10:59




 昨日、酉の市に付いて書きましたが、酉の市は11月の酉の日、その年によって違いますが、今年は二回。次回は11月23日になりますね。三の酉まである年は火事が多い等と言いますが、まっ、とにかく二回目、三回目の酉の日が過ぎると本格的に冬になるわけです。
 冬と言えば、冬休み、クリスマス、年末、お正月と続くわけで、寒さのわりには楽しい行事が目白押しです。昭和40年代の下町質屋でも、子供達がクリスマスやお正月を楽しみに二階の部屋のこたつで勉強なぞしているような、していないような。テレビでやってるクリスマス特集の番組など見ながら、
「おにいちゃん、うちってクリスマスとかやらないねぇ。」
「ばか、あれはテレビの中の話だろ、パーティーなんかやる家はあるもんか。」
 そう言われて納得していました。

 下のお店の方では年末に向けてだんだんと忙しくなっていくようです。実際今でもそうですけど、11月末から質屋は忙しくなります。お勤めされてる人は12月になればボーナスが支給されるから、その時返せばいいや、ということで、11月から12月の初めのうちに先に出費をしてしまう方もいらっしゃり、そうした方々が支給されたボーナスでお返しにいらっしゃいます。
 ただ、ボーナスと言っても12月の5日とか10日とか前半に支給されるのは大手の会社だけでした。下町の小さな会社ではボーナスっていうより、正月の餅代って感じで、12月の月末ギリギリになってから支給されるのが当たり前でしたので、質屋の方も12月ギリギリまで忙しかったのです。
 それと、昔はその年に借りた物はその年のうちにけりを付けよう、お返ししようっていう風習が強く、12月の31日などは夜中の2時、3時までお客さんが絶えない状況でした。しかも当時は着物や背広などが主流で、正月に着るために着物をお出しにいらっしゃったり、
「その背広、正月に着たいんだよ。夜1時頃に行くからさ、アイロンかけておいてくれないか。」
 なんていう電話も珍しくなく、母が慌ててアイロンをかけていることもありました。

 子供達も多少は手伝います。上の兄は、金庫の中のお金の整理、おつりを取りやすいように十円玉を3枚ずつ積んだり、百円札や五百円札を10枚ずつ束にしたり(当時はそんな金種ばかりだったんですよ。)僕は、僕は何していたかな?年末の大掃除で、障子のの紙の貼り替えとか、(霧吹きをかけて静かに剥がせばいいものを、下の兄とこの時とばかりにびりびりに穴をあけたりして。)
あと、母が切ったお餅を二階に並べたりして、正月を迎える準備をしていたのでした。お買い物のお手伝いもしました。下町・弘明寺商店街は12月の29,30,31日には物凄い混雑になります。福引きの「くるくるぽっとん」(あの機械をこう呼んでいた)は僕の役でした。美味しい役ですよね。これで当てる洗面器で、正月の朝風呂に入るのが楽しみだったんです。

そうそう、この頃になると我が家にもお風呂が出来ていました。銭湯に行かなくても、ふと様のお宅にお風呂をもらいに伺わなくてもよくなりました。でも感謝はずっとしていますよ。





在日米軍キャンプ
2007/11/5(月) 午前 9:59


さて、どこの家庭でも同じだと思いますが、家庭は母親が中心になって回っています。特に私の実家のように母が家事をこなしながら店も手伝っている場合、店主の父も母の都合を聞いて仕事をしていますし、子供の目から見れば母の忙しさは尋常ではありませんでした。
 電気炊飯器や電気冷蔵庫、横にローラーがついた洗濯機が普及してきたとはいえ、保温機能や脱水・乾燥機能がついた現在の家電製品とは比べものにならず、家事労働は今よりずっと手間がかかったはずです。

 私は三人兄弟の末っ子で、すぐ上の兄とは歳が離れていましたので、母といる時間が長く、母が行くところ何処にでも一緒に連れて行かれました。毎日のお使いや、兄の学校はもちろん、お店の用で、銀行、役所、郵便局、質屋組合事務所や、近所の同業者のお店、警察(質屋の監督官庁です)や計理士さん、厚木の母の実家や親戚の家にも連れられて行きました。父は今の私と同じで、質屋を守らなくてはいけなかったので、外には出れず、外回りの仕事は公私全てが母の仕事で、私はその全てに付いていったわけです。

 母が小学生の頃の友人で、米軍の水兵さんと結婚し、本牧の米軍住宅に住んでいる人がいました。子供心にも、母と比べちゃいけない、比べちゃいけないと思いながらも母より長身で凹凸のある体つきで、派手な服装で、髪はカールさせ、化粧が濃く、いつもパックストーンの煙草を吸っている女性でした。

 その旦那さんミスターCにも会ったことがあります、抱っこされたことも。
もちろんアメリカ人ですが、とても身体が大きくて日本語が全然話せないけど優しい人です。私と同い歳のペギーという女の子と、二歳年上のウイリーという男の子がいて家族ぐるみでお付き合いしていました。うちにも何度か来たことがありましたが、こちらから米軍住宅内のお宅にお邪魔することが殆どでした。



 沖縄や福生の人以外は馴染みのない話かもしれませんが、横浜では市内各地にアメリカ軍の接収地がありました。接収地と言っても横須賀や横田のような基地ではありません。基地で働く軍人さんの家族が住む住宅で、代々木公園ぐらいの広さに、周りを白塗りの金網と鉄条網で囲まれて、中にはテレビで見られるようなアメリカ風住宅が並んでるわけです。大きな物は現在のマイカル本牧の周辺、山手警察から間門町あたりまでと、旧港湾病院から県道を隔てた真ん前にもありました。
 現在でも根岸の森林公園から平楽までの高台は接収されていて、ユーミンの「海を見ていた午後」という歌に出てくる山手のドルフィンの斜向かいにその米軍住宅用の消防署があります。


 母に連れられ米軍住宅の敷地内に入るとそこはアメリカでした。(まあ、法的にもアメリカなわけですが)テレビで見るアメリカ製のドラマに出てくるように、広々とした敷地には芝が敷き詰められ、
木造の二階屋が点在しているのです。
 私は母に連れられ、ミセスCの家にあがり(と言っても靴は脱がない)、我慢していたオシッコをしにお便所に入るとそこにはバスタブがありました。
 まあ、そんなことはどうでもいいのですが、私はこの米軍住宅内に入ったら、どうしてもやりたいことがあったのです。それは、芝生の上でゴロゴロすることです。
 当時、幼稚園児の行動範囲に芝生はありませんでしたから、金網の外から見るたびに、ここでコロゴロ出来たらどんなに楽しいだろうと思っていたのです。
 私は母とミセスCの許可を得て、念願だった芝生でゴロゴロを体験してみました。
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 たいしたこと無かったです。芝生はチクチクするし、セーターにつくし。それでも負け惜しみで「あぁ、楽しかった。」と独り言を言って立ち上がったところ、自分の倍以上あるアメリカ人の子供達に取り囲まれてしまったのです。とにかくデカイ、お兄ちゃんより近所のみつおちゃんよりでかくて、強そうで、中には黒人もいます。初めて見る黒人はとても怖くて、みんな口々に聞いたこともない英語を話していました。


              質屋とは関係ない話になってきましたが、次回に続きます。




YOKOHAMA
2007/11/6(火) 午前 11:56



さて、前回米軍住宅内でアメリカ人の子供達に取り囲まれた幼稚園児だった私でしたが、取り囲んでいた子供達の中にミセスCの息子、ウイリーがいて、
「一緒に遊ぼうよ。」と言ってるようで、しきりに “Come on” と手を上向きに巻いていました。

ここは一緒に遊ぶべきか?
でも、その当時、幼稚園児の私ではそれほど打ち解ける勇気はなく、後ずさりしながらミセスCのお宅へ戻っていったのです。

 するとそこに待っていたのは、ミセスCの娘、ペギーでした。
いや、可愛かったの何のって、おもちゃ屋さんで売ってる青い目をしたお人形をそのまま大きくしたみたいで、人間とは思えない美しさで、私は逆の意味で心臓が高鳴り動けなくなってしまいました。
 ずっと後のこと、アメリカでジョンベネちゃん事件の映像を見たとき、あの時のペギーの美しさはこんなだったんだ、と改めて気がついたのです。

 まあ、可愛かろうがどうだろうが、幼稚園児の女の子がやることは、おままごとかお人形さん遊びと、相場が決まっていて、これについては地元でもよく付き合わされていたので、日米の垣根を越えてすんなりと打ち解け、一緒に遊ぶことになりました。

 さて、うちの母が度々ミセスCのお宅にお邪魔したのにはわけがあります。それは、当時国内では手に入らない骨付きの巨大な肉や、パックストーンやマルボロなどのアメリカ製のタバコ、それにオリンピアやバドワイザーなどのビール、コーラ、チョコレート、その他諸々をPXと呼ばれるアメリカ軍人用のスーパーマーケットで買ってきてもらい、受け取ることでした。
 これって罪になるのかな?
1ドル360円の時代でしたから、日米の物価の差もかなりあり、安く手に入ったであろうことは想像できますが、それよりもアメリカ製のそれらの食品は、コッテリしてボッテリして、いかにも贅沢をしている気分になれる美味しさだったので、家族みんなが大喜びしたからです。
 そんなお肉の固まりを受け取ってくると、その日の夕食にはガスオーブンに入れて長い時間かけて焼きます。もう家の中じゅうお肉の臭いが充満して幸せな気分になれるのです。
 クリスマスには無塩バターを使ったアメリカ製のケーキを食べ、アメリカ製のオモチャも貰えます。
アメリカ製のおもちゃっも、日本のものとはどっか違うんです。そんな感じで下町育ちのくせに、妙にアメリカかぶれした幼年期でした。

 さて米軍住宅ですが、本牧にあったものは私が大学卒業の頃に“接収解除”ということで、横浜市に返還されました。それは日本国民としては喜ぶべきことかもしれません。でも私の幼年期には米軍住宅がある町ということで横浜を誇らしく思う部分がありましたので、それが無くなった横浜は、特徴のない東京のベッドタウンでしかないような気もします。

 家族ぐるみのお付き合いをしていたミスターCファミリーですが、私が小学校を出る頃までには、だんだん疎遠になってゆきました。日米の経済格差もなくなってきて、日本国内にも輸入品が溢れ、アメリカ製品が珍しくなくなってきたこともあって、この密貿易も必要なくなってきたのでしょうか。
 その後ミスターCは海軍を除隊して海運会社で働きながら、家族は市内の家に引っ越したのですが、ずっと後になって故郷のユタに帰ったと聞いています。ウィリーもアメリカの会社に入ったはずです。お人形さんみたいだったペギーは日本のモデル事務所に所属して、初期の頃のJJのモデルやナショナル、ハンドカーラーの箱に顔写真を出したりして、一時、俳優の草刈雅夫とも噂になったこともあるのですが、その後はカタギに戻って、横浜の一流ホテルで総合職として働いていた時までは連絡をとっていました。

 話は違いますが、私が初めて女の子をナンパしたのは中学一年の冬、本牧のローラースケート場に5人で遊びに行ったとき、やはり3人で遊びに来ていたアメリカンスクールの8年生の女の子でした。名前がひとりはリズ(エリザベスの愛称)他の二人は忘れました。当時はごく普通に町にアメリカ人がいた時代だったのです。
                           古き良きYOKOHAMAでした





10
ヨコスカストーリー
2007/11/6(火) 午前 11:56



この章の終わりとして、横浜の次に私にとって思い出深い街、隣町の横須賀について書かせていただこうと思います。

私と同い年でもある山口百恵さんの、LPの収録曲に「CAME FROM YOKOSUKA」という歌がありました。

「♪横須賀から〜汐入、追浜、金沢八景、金沢文庫〜♪…
 あか〜い電車は白い線〜♪I'm come from YOKOSUKA あなたに会いにきた〜♪」

…という鉄ちゃんなら、泣いて喜ぶような歌ですが、歌詞はもちろん横須賀出身の阿木耀子さん、
これをやはり横須賀出身の山口百恵が歌うと、ゾクゾクするほどかっこいいんです。 何故かって?、それはとっても美しいこの二人が、横須賀の持つ暗さを背負っているからです。

で、横須賀に行くときはこの歌の逆をたどって京浜急行に乗ります。現在なら快速特急に乗り換えるので追浜、汐入は止まりませんが、弘明寺から30分ぐらいで横須賀中央にたどり着きます。この横須賀中央の次の駅、現在「県立大学」に私の叔父が住み、やはり「岩田質店」という質屋をやっています。

この駅はつい5年ぐらい前までは「京急・安浦」という駅で、実際このへんの地名は横須賀市安浦町です。
ここは昔、赤線(政府公認売春街)があった地域で、昭和33年の売春禁止法施行後もヤミで営業を続ける宿も多く、ポン引きと呼ばれる客引きのおばあちゃんと警察官の追っかけっこが続いた町です。
それ故に一杯飲み屋も多く、質屋も多い町で、現在でも5店舗が点在しています。

こう書くと自分のブログの趣旨に反することですが、質屋が社会の暗い部分を背負ってきたことは、隠しようもない事実です。

それが平成になって安浦沖の港を埋め立て、新しいマンションと大型スーパー、そして神奈川県立保険福祉大学が立ち並ぶ平成町という町が出来上がり、かつての暗さは無くなってしまいました。

その、安浦「岩田質店」の店主でもある叔父は、普段はとても愛想がいいとは言えない人間ですが、私には優しく、昔から可愛がってくれています。私が親戚中で一番年下だったことや、私の名前が叔父の名の一字を取っていることも理由にあるのでしょうが、昔からお年玉をもらうときは、私だけに二つくれることもあったくらいで、私が成人してからも、やたらと私の話を聞きたがり、微笑みながら頷いて聞いてくれます。

その叔父も今では80歳を越えています。穏やかな笑顔の裏には基地のネイビーや売春婦達が闊歩した横須賀の暗さを背負ってきているものと思います。


さて、横須賀にクルマで行くとなると、横浜横須賀道路という距離あたりの値段が日本一高い有料道路を走らなければなりません。ここの横須賀インターから、本町山中有料道路を5分ほど走ると眼前に横須賀の街が見えてきます。

ここを夜に走ると、眼下の横須賀港に停泊する空母や潜水艦、フリゲート鑑などが、破壊工作防止のためにライトアップされて、もの凄い綺麗です。横浜や神戸なんか足下にも及ばないほどの美しさなんです。
道路はこの宝石箱をばらまいたような煌びやかな横須賀港の真ん前に、着陸するように降りて行きます。

もし、女性の方が男性の運転する車の助手席でこの夜景を見れば、
「私、今夜、この男のものになる。」
 と覚悟せざるおえないほどの美しさです。    (官能小説の読み過ぎ)

まあとにかく、夜景に酔いしれた女性を乗せたクルマは「ホテルトリニティー横須賀」というホテルの前に着陸します。ここは以前の横須賀プリンスホテルで、私もプリンスホテルの頃に行ったことがあるのですが、最上階にあった「トップ・オブ・ヨコスカ」というBARには「ヨコスカストーリー」というカクテルがありました。

とっても美味しいジンベースのカクテルだったんですが、量が少ないんです。
これを注文するお客さんは、出されたカクテルを見て必ず言うそうです。

「…これっきりですか?」
・・・・・と。



第二章おわり、