『ALWAYS三丁目の夕日』という映画があります。2006年日本アカデミー賞では全部門で最優秀賞を獲得した名画として日本映画史にその名を残すことになった映画で、昭和33年(1958年)の東京の下町を舞台とし、夕日町三丁目に暮らす人々の暖かな交流を描いています。
 私が生まれたのも、ちょうど昭和33年です。あの映画に描かれる風景や風俗は、そっくりそのまま私の幼いころに重なりますので、私もこの映画を見ると、当時の頃の事が懐かしく思い出され、心が温かくなる思いです。
 今回この映画の題名をもじった『ALWAYS三丁目の質屋さん』と題して、下町質屋の息子としてに生まれてから、これまでの体験を、なるべく質屋という観点から書きとどめたいと思います。


昭和30年代の風景
2007/11/2(金) 午後 0:56


 私が生まれて育った家は、もちろんこの弘明寺という町で、家業は当時から質屋をやっていました。
この町は空襲に会わなかった事と、戦後横浜の中心地、伊勢佐木町・関内方面が米軍に接収されていたこともあって、そうした歓楽街に行けなくなった人達が押し寄せていました。また、周囲には第一パンや捺染工場、横浜国立大学があり、市電(路面電車)の終点ということもあって、3軒の映画館と多数の飲み屋( 居酒屋とはちょっと違う )3軒の銭湯と5軒の質屋があるという賑やかな町でした。

昭和30年代というと、横浜中心街の接収が終わり、ようやく落ち着きを取り戻してきた頃です。確かにいい時代でした、一部の上流階級を除いて国民皆貧乏でしたから飾る必要がありませんし、エアコンがあるわけではなかったので、夏には窓は開けっ放し、隣の声も夕食まで分かってしまいますが、それだけに近所迷惑にならないように心がけも生まれるし、そのうえで近所づきあいも今よりずっと密接でした。

それでも今のような社会規範はありませんから、強い人は強い、世間には色々な人がいたものです。昼間から酔っぱらいは溢れているし、ヤクザっぽい人は跋扈(ばっこ)してるし、大声で喧嘩してる人もいました。
 そういう人がみんなうちに来るんです。質屋ですから、当時としては当然なんです。
父は、そんなお客さんに対して、時に話に付き合い、時にたしなめ、うまく相手をしていました。それからやはり生活に困っている人は多かったように感じます。それも父は、とことん話を聞いてあげて、お客さんと一緒に泣いていることもありました。

それでも夜中に酔っぱらったお客さんが、店の戸をドンドン叩いて、「開けろ〜〜!」と言うのには参りました。その当時は店の二階にみんなで寝ていましたから、みんな一斉に起こされ、父は二階の窓から、
「今、何時だと思ってるんだ〜、近所迷惑だろ!」と怒鳴ります。

つまり、当時の質屋はそんなだったんです。

「ALWAYS 三丁目の夕日」は昭和30年代前半の物語だそうです。その頃、庶民の生活に密着した質屋を見てきた、質屋の息子にとって現代のように、ごく普通のお嬢さんがブランドバッグを売りに来るようになるとはとても考えられませんでした。







質草は着物
2007/11/3(土) 午前 10:59




 大阪に「釜が崎」という地名がありました。現在は地名が変わって、あいりん地区といいますが、生活用品全部を質屋に入れてしまって、お金が出来たら何から先に出すか、布団か?鍋か?釜か?まずはご飯を食べなきゃ生けていけんから、釜が先や、そこで、「釜が崎」という地名になったという話は、マンガ「じゃりん子チエ」で知りました。

 鍋や釜など生活雑貨を質に入れた時代は覚えがありませんが、落語では“落語のネタ”を質に入れた話もありますね、私が子供の頃からうら覚えに覚えていたのは、倉庫の中は着物でいっぱいだったことです。金額的な割合ではやはり貴金属宝石類が多かったことと想像できますが、着物はとにかく場所をとりますので、子供の目から見て、昔の質屋の倉庫の中は着物でいっぱいと見えたのでしょう。

 よくドラマである情景ですが、一家の主婦が家計を助けるために、箪笥の底から嫁入り道具の着物を出して、こっそり質屋の暖簾をくぐると…。昭和30年代といっても、みんながみんな飲まず食わずの貧乏だったわけではありませんが、裕福に見えるちゃんとしたお屋敷の奥様でも、困ったときには質屋をくぐるのは普通に行われていたのです。

 問題はその後のこと、質屋は、お客様からお預かりしたお着物は仮畳みして倉庫の中に重ねておき、
時間が空いたら台帳に付けて、今度は本畳みでたとう紙(2006/6/14参照)で包んで日にち順に倉庫にしまいました。今の若い質屋さんは、着物畳めるでしょうか?大変なんですよ。
 何が大変って、とにかく量が多かったので、毎日のように右の棚から左の棚、二階から一階にと積み替えるのですが、その時は豪快にバ〜ンって置きます。置いた後はパンパンって、たとう紙の上から叩きます。二階から一階に積み替えるときなどは豪快に投げるのです。乱暴に扱っているように見えて、実は着物って言うのはちゃんとに畳んでたとう紙に包んでおけば、皺は寄らないものです。積み替えで多少ずれても、バンバンって叩けば直ってしまいます。もちろん投げても水平に落ちるようになるにはそれなりの熟練が必要ですが、、、
 春や秋の天気が良くて、乾燥した、ちょっとだけ風がある日には、虫干しを行います。うちには二階に八畳間があって、普段はそこで私達が寝ているのですが、そういう日には、長い間お預かりしている着物を部屋いっぱいに拡げて風を通すのです。私が子供の頃、小学校から帰ってくると、母から、
「今日は二階に上がっちゃだめよ。」と、よく言われました。
 そう言われながら、そっと二階を覗くと、部屋中に着物が並べられ、その他毛皮や背広がハンガーで
掛けられ、物凄いことになっていた覚えがあります。虫干しされた着物達はまた本畳みでたとう紙に包んでしまわなければならず、まったく着物は手間のいるものでした。
 ただ、質屋は昔からそれだけお客様からお預かりした品物を、お客様に代わって管理する気持ちを、質屋気質(しちやかたぎ)として持っていたんですね。






家電の登場
2007/11/5(月) 午前 9:59



 映画「ALWAYS 三丁目の夕日」ではスズキオートさんにテレビが初めて来たときのことが描かれています。
町内のあるお宅でテレビを買えば、近所のみんながそれを見に来るということは、今の感覚からすると考えられないかもしれませんが、当時としてはごく普通にあったことです。

 ただ、私はテレビが我が家にやってきたときの感激って知らないんです!!物心付いたときにすでにテレビはありましたから。  (そういう世代なんです。)
 もちろん白黒のテレビで、子供は子供ながらの番組を見ていました。「忍者部隊月光」とか「隠密剣士」「エイトマン」「鉄腕アトム」「鉄人28号」、それらは近所の子供達と一緒に観たこともありましたし、夜は家族揃って「ただいま11人」「時間ですよ」などホームドラマを観た楽しい思い出があります。

 カラーテレビを初めて観たときの感動は忘れられません。カラー放送というのは昭和35年から始まっていて、東京オリンピックの昭和39年に爆発的に普及したと言われていますが、うちにカラーテレビが来たのはもう少し後だったと思います。当時カラー放送の番組は、画面の右下に「カラー」と書いてありましたから、放送が行われていたのは知っていたのですが、実際に見るカラーテレビの色のついた世界は驚きでした。

 あの頃、家族揃ってみていた「奥様は魔女」というアメリカ系ホームドラマのエリザベスモンゴメリーの美しさには胸が高鳴り、「巨人の星」の花形満のアンダーシャツが赤だった(紅洋高校時代)ことに感激し、赤い長袖シャツの上に半袖体操着を着て花形の真似をしたものでした。

 ところで、当時としては宝物だったこのテレビ、父はどうやって手に入れたかというと、これがやはり質流れなんですね〜。当時の質屋も忙しいことは忙しかったのですけど、そんなに儲かってはいませんでしたから、新品のテレビを買えるほど高い給料をだしていたわけありません。

 いや、珍しいことではないんですよ。我が家ではラジオ、テレビ、冷蔵庫、洗濯機、炊飯器、カメラ、8ミリ撮影機&映写機、ステレオ、ラジカセ、ギター、自転車、初期のパソコン、ワープロ、腕時計、アマチュア無線機、ビデオ、ビデオカメラまで、全て質流れでしたから、その点恵まれていたのかもしれませんが、実は昭和40年代から、60年代へと、お取り扱いする品物の中で、電気製品の占める割合が、どんどん多くなっていったのです。







質流れ品が欲しい
2007/11/6(火) 午前 11:56



昨日のブログにはコメントを多数いただきまして、まことにありがとう御座いました。
特に全国の若い質屋さんから、「うちも電化製品は質流れだった。」という共感のコメントをいただき、嬉しい思いです。

かつて放送されたNHK朝の連続テレビ小説「ひらり」(1992年10〜93年3月放映)で、主人公のひらり(石田ひかり)が質屋のおじいちゃんに、
「私も振り袖お願いね、質流れでいいからさ。」
とおねだりするシーンがありますが、まあ、あんな感じかな、

「お父さん、ラジカセある?」
 と聞くと、たまたま質流れであれば、
「あるぞ〜〜〜。」と言ってくれることもあるし、

 その時の質流れにないと、
「まあ、二、三ヶ月待ってろよ、そのうち出るから。」
 と言ってくれます。
 二三ヶ月すると、
「おい、ラジカセ欲しいって言ってたろ、これ使うか?」
 と用意してくれるのです。
 
(いま、この文を書いていて、『なんて甘い親なんだ。』と思います。『甘えん坊の子供だなぁ』とも)
 ただし、事情を知ってるだけに機種までは選べません。
『これじゃない、ナショナル・マックBBが欲しかったんだ。』
 とまで言ってしまったら、ただのだだっ子です。多少の機種やメーカーが違っても、親が用意してくれたものはありがたく使わせてもらいました。
 中学を出て、高校生ぐらいになると、タダではもらえず、お金も要求されるようになってきました。
「おい、お前が言っていたダブルカセットのラジカセ、流れが出たぞ!、使うか?」
「どれどれ、わ〜〜い、これ欲しかったんだ。」(わざと大げさに喜ぶ)
「そうか、じゃあ、6,000円でいいぞ。」
「えっ!  ・・・・・ぶ、分割で、、、」
 という感じでした。

 それから、説明書は付いていません。
付いていないんです!!質流れの中古品ですから。
ですから、操作方法は自分で研究して使えるようにしなければならないのです。電気屋さんでカタログをもらってきて、出来る機能について全て試すわけです。
 おかげで、電気製品の操作方法や設置方法にはやたら詳しくなりました。
 そこでです!! 父の狙いはそこだったのです!!
今度は父に使われだしたのでした。
ようするに、
当時、質流れの品は殆どが出入りの古物商の業者に売却するのですが、親父も色んな人に質流れの中古品を売ってくれと頼まれます。当時は、やはり電気製品は宝物!!安い量販店もありませんでしたので、中古でもいいから少しでも安く欲しかった時代です。
 そこで父も、質流れの中古品を頼まれた人に売るのですが、そういう人は素人ですから、やはり説明書がないと使い方が分からない、
 そこで、私に、
 『おい、これちょっと研究して、説明書を作ってくれや。』
 という仕事を依頼したのでした。
 それだけではありません。
 ビデオですビデオ。
  1980年代に入って、急速に普及しだしたVTR=ビデオ・テープレコーダー、これが、やはり注文が多かったのです。ところが、これは設置しなければいけない。テレビに繋いであるアンテナ線を外して、ビデオに付けて、同軸ケーブルをナイフで剥いて、ビデオとテレビの間を繋いで、ビデオのチャンネルを合わせて・・・・、技術的にどうしたという問題はありませんが、各部の役割や機能を理解しないと出来ないことです。また、お客さんの家に上がって、設置しながら丁寧に使い方を説明することによって、接客の言葉遣いや態度を覚えていったわけです。

 質流れのラジカセやステレオを使わせてもらい、恵まれた生活を送ってきたものの、つまりは、この時のために父に鍛えられていたのか?あの与えられたたくさんの質流れ品は、質屋の跡取り養成ギブスみたいなものだったのか?
 
 んんんん・・・・・、???   巨人の星みたいだぜ、とおちゃん







高価な無線機
2007/11/6(火) 午前 11:56



「CQ CQ CQ、こちらは、JH1R●E・・・・」
私は三人兄弟の一番下として生まれ、一番上の兄とは6歳離れています。

弟にとって兄ってのは、親友のようでもあり、親のようでもあり、もちろん先に生まれているわけですから、自分より先に人生の色々な事を経験するわけで、小学校の入学も、運動会も、遠足も、学芸会も、林間学校も、修学旅行も、卒業式も、入試も、クラブ活動も、初恋も、ギターを弾くのも、煙草を吸うのも、お酒を飲むのも、自動車に乗るのも、ついでに就職も、結婚も、子供が出来るのも、、、、み〜んな先に経験して行き、弟としては誰よりも親しかったお兄ちゃんが、人生の色々な経験をして行くのを自分の事のようにワクワクして、誇らしく、でもちょっぴり妬ましく感じながら見ていたのであります。

確か万国博の前の年だったと想います。我が家にアマチュア無線機がやってきました。ヤエス無線のFT−200というミカン箱ぐらいの大きさのもので、スピーカーとマイクが付いていました。
Wikipediaでも書いているように、今は携帯電話はインターネットに押されてアマチュア無線をやる人は少なくなってきましたが、当時としては最先端の趣味だったわけです。当時高校生だった上の兄がアマチュア無線に興味を持ち、免許を取ってから父に買ってもらったものです。

ホントに兄貴ったら金がかかる物を欲しがるんだから、当時まだ小学生で、350円のソフトビニールのペギラが欲しいのに我慢していた私にはめちゃくちゃ妬ましかったのです。

アマチュア無線は選ぶバンドによって色々な機械がありますが、このFT-200は長波の電波を使うためにラジオみたいな短いアンテナでは送受信できません。そのため、うちの屋根から一軒おいた隣の歯医者さんの屋根までダブルエット・アンテナを張って、その工賃まで含めたらとんでもない道楽です。280円の「巨人の星」のコミック本が欲しいのに我慢していた私にはやはり妬ましかったです。

それでも、テレビやラジオのように誰でもが操作・視聴できる機械と違って、免許を取得しなければならないアマチュア無線を行う兄は、私の目から見てやはりスーパーマンでした。またひとつ未知の世界に踏み出して行き、兄がすごく偉いように見えたのです。

その兄の弟だから、僕だって自慢できるんじゃないか。そんな事まで思っていました。

昭和40年代に入っていました。

「ALWAYS 三丁目の夕日」は昭和33年を舞台にしています。東京タワーと一万円札と売春禁止法が出来、前年の経済白書に「もはや戦後ではない…」という有名なセリフが添えられた輝かしい年です。それから10年あまり立って、テレビは各家庭に普及し、洗濯機、冷蔵庫、自家用車まで街に溢れるようになった頃、人とは違った“趣味”を持つことが流行のような時代だったのです。一個20円のチューブのチョコレートを買おうか、一本10円のおふと10円のコリスガムを買おうか、10円玉二枚を握りしめて、10分も考えていた私にとっては、そんなの関係のない話でしたが。