第五章

21
バブルの夜明け
2007/11/2(金) 午後 0:56



昨日はちょっと気を持たせるような終わり方をしてしまいましたがごめんなさい、たいしたこと無いのです。
バブルからバブル崩壊を経て、極端に質が落ちたのは貴金属宝石類のアクセサリーです。
「そうかな〜??」と疑問に思う方は多いと思いますが、私はそう感じました。
質屋として、宝石に特に興味がある質屋として、そう思うのです。

それまでの時代は、質屋にお持ちになる宝石というのは、
「これは主人が結婚20周年に買ってくれたもので・・・」とか
「これは主人から婚約指輪としていただいたもので・・・」などという枕詞とともに
空豆ぐらいの大きさの色石の指輪を見せられたものです。
我が家のたった一つの財産といった感じで、大切にお持ちになってまいります。

それがバブルになってこの種のアクセサリー類が大量に売れだしたのです。
一生に一個だけ買えるような貴重な財産であったはずの宝石が二個、三個と増えてゆきます。
それ以外にも、ちょっと残業手当が多く出たから、ちょっと株の配当金が入ったから、
そんな理由で、2万〜5万ぐらいのファッションリングが増えてきたのです。
ツツミやジュエリーマキのような大量販売をする全国チェーンのお店が増えてきたこともあるでしょう。宝石・貴金属類の大衆化が始まったのでした。

ただ、それは「品質の低下」とは言えません。確かに小粒のルビーやサファイヤを使い、華やかなデザインで装飾したファッションリングは宝石の質としては高いものではありませんけど、これは新しいジャンルを作りあげた、ということで賞賛されるべき事であって、品質を落とした犯人ではありません。
安価なファッションリングが売れて流行れば、それに比例して高額な宝石も売れてゆきます。
そんな中でとんでもない石が出回り始めたのです。


ルビーやサファイヤ、エメラルドなど、カラーストーンを使った指輪のデザインについては、
中央に置いた色石の回りに細かいダイヤを配して、より豪華に見せているものが一般的です。

かつてはラウンドカットの小粒ダイヤをぐるっと一周取り巻いただけのものが多かったのですが、
やはりバブルの時代になると、粒ダイヤを三重四重にも巻いたり、テーパーダイヤと言われる
長細い板状ダイヤを放射状に並べるデザインが流行りました。

こうしたデザインそのものは、バブルと関係ない大きな流行の一部でしかありませんが、
バブルの時は、特にこの装飾ダイヤが豪華になってゆきました。
もちろん国全体が金余りの時代でしたから、それまでの時代では国内に入らなかった高品質の
色石が、国内で売られるようになったことは確かです。
ただそうした石は産出量も限られ、国際シンジケートの恣意的取引制限もあって、いくら金あまり
だからと言ってそうそう輸入されるものではありません。

そのために、石そのものの品質よりも取り巻きの装飾ダイヤで豪華さを競うようになっていった
という理由もあったのでしょう。
ソ連で算出されるダイヤが市場に出てきたとか、加工技術が格段に進歩したということもあり
ますが、とにかく直径4センチぐらいの枠に散りばめられた装飾ダイヤの真ん中に、直径1センチ未満の色石が乗っかるという不思議な形の指輪も多く作られたようです。
しかもその宝石の品質が極端に品質が悪いものが多くなってきたのがこのバブル崩壊の一時期でした。

色石は、色が濃くて、透明度が高くて、明るいという相反する条件を満たした石が好まれます。
私はとある本の影響で、宝石をジュエリークォリティー、ジェムクォリティー、アクセサリークォリティーの三種に分類しますが、この時代に売られた緑の薄いエメラルドや水色に近いサファイヤというのは既に宝石ではなくアクセサリーとしか言いようがないものです。

この当時、こうした石のユビワが古物市場に持ち込まれると、
「これは枠代だけだね。」と言われたものです、
中石の値段はタダ同然で、周りのプラチナと装飾ダイヤだけの値段を査定すればよい、という意味です。

ところがその枠に使う装飾ダイヤも品質の低下と、装飾用小粒ダイヤの値段の下落がやってきたのです。

何度も言いますが、これはデザインの流行ですから悪いとかいいとか言う問題ではありません。
ただ、そういう指輪はバブル時代の象徴のようで、現在では「流行遅れ」というレッテルを
貼られてしまいます。

それとこの時代、そうした低品質の宝石が出回る一方で、
高品質な本物の宝石を求めて、いわゆるブランドジュエリーが売れ出してきたのでした。
カルティエやブルガリ、ティファニー、ショーメ、ピアジェ、ヴァンクリフ、Hスターンなど
海外超一流の有名宝飾ブランドも出回るようになってきました。

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22
ひらり
2007/11/3(土) 午前 10:59



ブランドバッグや小物が、一部の人々のものから一般的になってきたのは、バブルの後だと思います。
ごく普通のお嬢さんが質屋に持ってくるようになったのはいつからかというと・・・・、
実はこれには質屋業界のたゆまぬ努力と、長年の願いがこめられていたのです。

以前も書きましたけど、江戸小話に「伊勢屋、稲荷と犬の糞」というものがあります。
江戸の町を歩いてみると、伊勢屋という看板と、お稲荷さん、それから犬の糞は何処にでもある。
という意味で、この伊勢屋というのは質屋のことだったのです。
江戸庶民の生活になくてはならなかった質屋が犬の糞と並んで語られ、忌み嫌われる対象だったわけですね。

戦後、質屋が増えたのが昭和30年代、戦後の混乱期を脱して、人々の生活に活気が出てきた頃です。
それだけ必要とされていた商売だったわけですが、時代が華やかであればあるほど、影のイメージは付きまとい、人目に隠れて質屋を利用するというパターンが多かったわけです。
けっきょく、昭和40年代以前に生まれた人達にはそのイメージがあるんですね、

今でも、うちのお店に隠れるように入ってくるお客さんは、20年代から30年代生まれの人達だけです。
それ以後は、実は質屋そのものが減ってしまい、今の若い人達には、質屋に対する暗いイメージは、
それ以前の人達ほど強くないのだと思います。

もちろん、業界としてもPRに勤めてきました。
質流れ品バザーを行う際には、必ず、業界のイメージアップのためにテレビコマーシャルを流したり、
番組製作会社に頼んで、ニュースショーの一部で質屋に好感を持たれるような特集を組んでもらってきました。

森光子、堺正章主演の人気ドラマ「時間ですよ」は下町のお風呂やさんが舞台です。
その中でたまに出てくるムッシュかまやつ演じる鎌田さんは、質屋さんでした。

1992年秋から翌年春まで放送されたNHK朝の連続テレビ小説「ひらり」は、両国の質屋さんの娘、
ひらり(石田ひかる)が相撲部屋に通い詰め嘱託医(渡辺いっけい)と恋に落ちる物語でした。
これは本当に良かった!!
石田ひかりが、下町らしいチャキチャキの元気娘を好演し、ドリームカムズトゥルーの主題歌とともに、
朝ドラらしく観ていて元気にさせてくれるドラマでした。

暗いイメージさえ無くなれば、質屋はおもしろい所です。

ところが、このイメージを拭うのはホント難しいんですけど。
これからも頑張ると同時に、
業界のイメージを損なわないように、公私ともに身を引き締めて生きて行こうと思います。











23
おわり
2007/11/6(火) 午前 11:56



何度も書きますが、「ALWAYS続・三丁目の夕日」の公開に合わせて、
昭和30年代から横浜の下町で質屋を営んできた当店と、ここで育った私の目から見た、
質屋と時代の変遷を書いてきました。

本文はたいした内容も無いものの、毎回毎回、皆様に書いていただいたコメントによって充実した特集を続けることが出来たことを御礼もうしあげます。
私としては、特にお読みになって下さる読者の方の年代によって質屋に対するイメージが大きく違うことには驚かされました。

昭和40年代以前に生まれた人には、質屋っていうと暗いイメージをお持ちになるということは、
よく分かります。戦後誰しもが貧しかった時代に生活苦から質屋通いをしていた方が多かったために、
そんな悲壮感を嫌ってのことでしょう。

これが、不思議と、昭和50年代以降に生まれた方には、暗いイメージを持つ方は少なくなるようです。ただ質屋という商売そのものを知らないか、ブランドバッグや高級時計を売りに行くところ、という間違ったイメージをお持ちです。

これは、テレビの影響もあるでしょう。
ルィヴィトンのブランドバッグ(しかもカレシからもらった物)を質屋に売ってお金に換えるという情景には、女性のしたたかさは表現されるものの、生活苦という悲壮感は微塵も感じられません。
綺麗な女の子が、綺麗な店内で、イケメンバイヤー(こう呼ぶらしい)に、もらったばかりの綺麗な商品を売りに来るというシーンは、きわめてテレビ向けでもあります。

ただし、現在の質屋がいつでも、こんなことばかりやっていると思ったら大間違いです。
 (しかもテレビでやってるのは本当の質屋じゃないし!!)
特にウチのような下町の質屋の場合、実際に生活費のやりくりのために来店して下さるお客様も多いです。そういう大切なお客様に、どのように悲壮感を拭い捨てて、明るく気軽に利用してもらい、返済計画を立てていただくのが私達質屋の仕事です。

「だって、他人に迷惑を掛けるわけでなく、ご自分の財産をご活用なさるわけですから、

他人に借りるよりずっと恥ずかしいことではないですよ。」


そう言って、あるいは、言わずもがな態度で示して、気持ちよく帰っていただき、
明日への希望を持ってもらいたい。そういう質屋でありたい。
 これが僕らの使命なんです。
私はそう思っています。

でも、質屋というと格子の向こう側で、老眼鏡の上から上目遣いに睨まれる、そういうイメージをお持ちの方も多いと思います。実際、そうした質屋さんは多くいらっしゃいました。

私が質屋を手伝うようになった頃、父や父と同じ世代の質屋さんが、どうしてお客様に対してもっと笑顔を見せないのか不思議でした。
その世代の方に言わせるとそれなりの理由があるのですが、ここはやはり時代が変わったのですから、
笑顔で利用していただかないと、そのお店だけでなく業界全体が潰れてしまうことにもなりかねません。質屋だって変わっていかなければならないんです。

昨日、若い世代の方からいただいたコメントに、
『所有するエネルギーを最大限に有効活用して生きていくものだから、全然ネガ要素はない…』
というような事を書いていただきました。

まっ、ちょっと難解な文章ですけど、
昔は、何かというと世間体を気にする風潮がありました。世間様と同じようにしないとみっともないというような考え方が殆どの人にあったのです。それがひとつの社会規範にもなってはいたのですが、

現代では、法律を犯すとか、他人に迷惑を掛けるのでないなら、どんな生き方、生活の仕方も
卑下されるような時代ではありません。
ですから、質屋に行くことが恥ずかしいなんて、当の質屋しか考えていなくなるかもしれません。

そういう時代に対応して、質屋も便利な商売として、もっと多くの人達に利用していただければ、、、、

        それが理想なんですけど、そのためには色々とね、

                      色々頑張らなくっちゃ、であります。


これにて先月11月2日から続いた「ALWAYS 続・三丁目の質屋さん」シリーズを締めさせていただきます。





第五章おわり、